大規模な開発によって失われたり損なわれたりした自然の再生を人の手で、できるだけコストをかけず持続的に行う「小さな自然再生」と呼ばれる取り組みが全国に広がっています。例えば、開発の影響で魚が遡上(そじょう)できなくなった川に魚の通り道を手作りする、絶滅危惧種の生き物を復活させるために川底の石をひっくり返して川を耕し生き物がすめる隙間を作るといったものです。社会インフラの整備に関わる製品を提供してきたIHIでも、「自然と技術が調和する社会を創る」ことを掲げ、「小さな自然再生」に取り組んでいます。
フィールドは滋賀県東部の湖東平野を流れる愛知(えち)川に農業排水を流す水路。愛知川の流域にはIHI グループで橋梁(きょうりょう)や水門などのインフラ関係製品を製造する株式会社IHIインフラ建設(IIK) の工場があり、愛知川から取水した農業用水の配水状況を集中管理するためのシステムもIIKが納入していることから、 農業用水の有効利用や水管理作業の効率化の実証実験を2021年に始めていました。
IHI社会基盤事業領域事業推進部防災・減災ソリューショングループの吉田公亮さんは「防災、減災の技術開発という観点で東近江市の実証に携わり、事業機会や技術ニーズを探索する中で、自然再生、環境保全に関するアクションが必要だと感じました」と振り返ります。
背景には、自身が長く研究開発に携わってきた石炭火力発電所に対する社会意識の変化がありました。「環境や脱CO2の観点でネガティブな評価を受ける現在のような状況は想像していませんでした。技術的に先端的であることだけではなく、いかに社会に受け入れられるかが非常に大事だというのは、キャリアの中でも感じてきたことです」
まずはフィールドを視察し、地域の方にヒアリングをする中で、課題が浮かび上がってきました。湖東平野は扇状地で水が地下に潜りやすく、川の水が減ると流れが途切れる「瀬切れ」が起きてしまいます。愛知川には固有種のビワマスが生息し、上流まで遡上(そじょう)して産卵しますが、瀬切れが起きると遡上できなくなるため、地元の漁師の方は川の水を増やせないかと考えていました。他方で愛知川の水は農業に利用されていて、流域の農家にとっても重要な水源です。
「地域全体として水のマネジメントをもっとうまくできると、地域社会の豊かさや幸福度につながる。そうした利水と、洪水を防ぐ治水、それに周辺の自然環境の保全を含めてどういうインフラが必要なのか考えなければいけないと思いました」
そんな時、滋賀県立大学環境科学部環境政策・計画学科の瀧健太郎教授と縁がつながります。滋賀県は治水のリスク評価において全国的にも先進的な地域で、自宅や仕事場など各エリアの水害リスクを可視化した「地先の安全度マップ」を公開していますが、そのシミュレーションに携わったのが瀧教授です。
愛知川が瀬切れすると魚は生息できなくなりますが、その横を流れる農業用排水路に逃げ込んでいくというのが瀧教授の見立てでした。その排水路を生物がすみやすい環境に整えることで生き残る個体が増え、繁殖して愛知川の魚が増えることが期待できます。
「この水路で『小さな自然再生』を一緒にやりませんかと声をかけてもらいました。個人的にも、自分たちのできる範囲で、リソースやナレッジをうまく活用しながら少しずつ変えていこうという『小さな自然再生』のフィロソフィーが、社会運動としても面白いなと興味を持ちました」
瀧教授のほか、東近江市の職員や、排水路の横にある「河辺いきものの森」で自然体験や環境学習を行っているNPO法人里山保全活動団体遊林会のメンバーと共に2022年10月、最初の調査を実施。瀧教授の見立て通り魚が多く入り込んでいて、避難場所としてポテンシャルが高いことが分かり、改めてIHIの社内でメンバーを募りました。
吉田さんの呼びかけに応じ、社内副業制度で参加した6人のメンバーと共に水路の調査や魚の確認、清掃を行い、瀧教授が大学で行っている環境フィールドワークを受講。水路に石を置いて流れに変化を生じさせる「バーブ工 (こう)」と呼ばれる手法で魚が住みやすい環境をつくり、それによる変化を確認する「見試(みため)し」を行いました。
一定の成果が得られたことから、河川の環境や生態系、水辺のまちづくりなどに取り組む公益財団法人リバーフロント研究所の専門家にも参加してもらい、さらに本格的な水路調査を実施。その結果を基に現地研修会を開き、地域住民や漁業者、土地改良区や行政の人たちと共に愛知川の自然再生について議論し、提案や改善点をまとめました。現在も引き続き、調査と実践を続けています。
副業制度で参加した技術開発本部技術基盤センターターボ・機械要素技術部の田畠一二三さんは「普段の開発で自然に携わることはほとんどないので、最初は『小さな自然再生』というワード自体に興味を持って参加したんですが、そのままはまってしまいました」と笑います。
「自分が子どもの頃は自然の中で遊び回っていましたが、今の子どもたちにとっては遊びづらい環境になっているのは親としても感じていました。治水のために堤防を造ればそれで終わりではなく、そこに魚や生き物や植物が戻ってこないといけないし、子どもたちが触れられるようにしたい。何か手助けになれればという思いがモチベーションになっています」とも。
同じくメンバーの一人で技術開発本部管理部調達グループの岩瀬達子さんは「もともと自然や生き物が好きで、技術系でもない私でも気軽に参加できると吉田さんから聞いて、それならば参加してみようと思いました」。実は川の清掃を行ったのは、調査時に岩瀬さんが「水路にごみがいっぱいあって気になる」と言ったことがきっかけでした。
「川をきれいにして、バーブ工を置いて、次に行ったら変化があるというのがすごく面白くて。『自然再生』というと難しそうですが、少し手を加えれば確実に何かが変わっていく。そんな小さなきっかけが、だんだん壊れていく地球を少しでも直すことに結び付けば」と期待を寄せます。
しかし、川という公共のものを対象にしているからこその難しさも感じました。「漁をする人もいれば農業に使う人もいて、川の水はみんなのものなのに、取り合いのようになってしまっていて、誰かの意見が強くなれば他の誰かが困るのを目の当たりにしました」と岩瀬さん。
吉田さんも「水をマネジメントする上で、とても多くのステークホルダーがいて、一つの企業で解決するのは難しい。自然再生に限らず、われわれ企業が地域課題や社会課題の解決に取り組む際は、そういういろいろな人たちと連携しながらやっていかなければいけないというのは、改めて感じたところですね」とうなずきます。
「小さな自然再生」の名の通り、IHIにとっても異例の「小さな事業」であるがゆえ、「事業としてのインパクトは今のところありません」と吉田さんは正直に明かす一方、「が、非常に大事なマインドセットを得られています」と続けます。
「未知の領域に入っていく時に、リソースがないから、専門知識がないからできないというのでは何も前に進みません。自分たちのできる範囲でいかにやるかを考えるというのは新しい事業を起こす上で必要なマインドセットで、そういうアプローチを取れる人が社内で増えていくことも大事で、その一つの事例として認識してもらえれば」
それだけではなく、IHIにとっての事業価値も生み出そうと、環境省が認証を進める「自然共生サイト」に水路の所有者である東近江市と共同で申請する準備を進めています。TNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures=自然関連財務情報開示タスクフォース)で生物多様性に対する企業の取り組みについて説明責任が求められている中、「自然共生サイトの登録を進めていることは、IHIの取り組みを多くの人に知っていただける機会だと思います」。
プロジェクトのここまでを振り返って、「いろいろなご縁、出会いがあったおかげです」と吉田さん。「自分たちだけではできないことが、アクションを起こし、発信することによって、いろいろな立場の方が手助けしてくれたり機会を与えてくれたりして、実現に向かっていく。それが善いことであれば共感してくれる人が必ず現れてくれるんだなと思いました」
始まりは「小さな」プロジェクトでも、同じ社会課題を解決しようという意志を持つ人たちと出会いを重ね、立場を超えて連携、協働することで社会的に大きなインパクトを起こす可能性がある。「小さな自然再生」が掲げる理念や手法は、IHIにとっても、事業の小さな種を発芽させ、大きな花を咲かせるための重要な手がかりになりそうです。
取材協力:
吉田 公亮|社会基盤事業領域 事業推進部 防災・減災ソリューショングループ
田畠 一二三|技術開発本部 技術基盤センター ターボ・機械要素技術部
岩瀬 達子|技術開発本部 管理部 調達グループ
大石 祐可|技術開発本部 技術企画部 技術広報グループ